2018.10.14

リトリートの食事の準備をすることを申し出ているので

みんなで決めたメニューの中の、

自分の担当のキーマカレーを25人分作っています。

私は普段あまり料理を積極的にはしません。

手がおかしくなっていることもあるけど

その前から、もともとあまり好きではなくて。

だから私の自我は、この、リトリートの料理をすることは

嫌だと言っている。

美味しくないんじゃないか...

恥ずかしい出来栄えにしかならない...

きっとみんなに笑われる...

調理の担当メンバーに申し出ることに

 

実際、こうして料理をすることに

異論は全くない。

矛盾しているようだけど、やることは当然だと思っています。

だから全部脇に置いて玉ねぎをみじん切りし続けます。 

 

初めはゴーグルをかけてやっていたけど

ゴーグルなしでも大丈夫になってきたのは

ただ慣れたからではないように感じました。

私が普段料理をしないことを一番よく知っている母が

ずっとそばで監督や手伝いをしてくれました。

大量のみじん切りは一緒に涙を流しながら

鼻をかみながら切ってくれました。

味見も、アドバイスも。笑

一緒に味見をしている時、美味しいね、と言い合って

なんだか涙が溢れました。

 

とはいえ、闇は出る。

このところ、闇が本当に出ているなと思います。

この間、みんなで取り組んで字幕を入れた

フランセスの動画がすごく助けてくれていて。

何度も見て、手書きもして

本当に今、助けてもらっています。

あれを見ているから今、耐えられている、ぐらいに感じています。

今、なぜか就業していないことも

この数日、ようやく、これで良かったんだ、

むしろ、聖霊がそう計らったのかもと思っています。

 

9月の半ば頃から、なかなか仕事ができないことに

多分焦りや恐れを感じに行き始めて

早く仕事に就かなければ、みたいな状態になったのだけど

それは正しいこと、というような見方が自分の中にあったからで

いつものように求人サイトを見ている時

(毎日パトロールするように求人サイトを閲覧しまくっていたんです)

もう疲れた、もうたくさんだ。。

10月に入った頃だったか、本当にそう思って泣けてきた日がありました。

仕事はなんでもいいと思っていたし

仕事に就くことが重要でもないというのも腑に落ちてきていました。

なにせ、6月半ばくらいからやってるんですもん。。。笑

新卒の就職活動も、転職の時も、1〜2ヶ月だったのに

こんなに時間がかかるなんて、まるで無能みたいだという思考は

本当に度々押し寄せます。

いくつか採用されたものもありましたが

お断りすることになってしまうものもありました。

そういう全ての展開の中で

闇を出し、聖霊を受け入れ、訂正を受け入れる

そのためのことだという理解と

それは私の望みなので

どんなに度々自我の思考が上がろうと、

聖霊を頼る練習としていました。

でも、疲れた、と号泣してしまいました。

疲れた、辛い、悲しい、助けて欲しい。

でもこれは、仕事探しをしている、とか、

見つからない、とかという展開されているかに見えている

映像と、実は全く関係なくしまいこまれていたものなんですよね。

ただ、浮き上がってきた。

確かに、展開されているように見えることが引き金のようには見えるけど。

浮き上がるだけ浮き上がらせて、泣くだけ泣いていたら、

『私は「ただ、幸せな1日」

というものを本気で望んだことがあっただろうか』

という言葉が浮かんで

コースのテキストには望んでいい、と書いてあるのを読んでいるけど

机上の空論になっていて

何もしないでいていい、と本気ではしてあげていないのではないか、と思ったんです。

 

「やる」ことに気をとられすぎているのだと感じました。

自分が働いて稼ぐ

自分が考えて判断する

自分が行為者であることがとても当たり前だったし

そうでないことはとても不安とすら感じるわけです。

完全に依存して、自分で計画もせず

ただ、幸せでいる。

そこでやってくるガイダンスに従う。

なんだかいつも何かしなきゃ、あれをしなきゃ、

メールのチェックをしなきゃ、

献身をしなきゃ

瞑想をしなきゃ

聖霊を選択しなきゃ

何かを埋めるように、しなきゃを追い求めることから外れられなかった。

ただ、幸せでいる。

そういう時間を自分に与えてあげていいんだなぁ。。。

 

そう思うことができてから

証人が次々やってきました。

この話は、次に書きます。