いいんだ、という信頼

リトリートに入る前、いろいろな準備の仕事があった中

料理の準備をする、というものもあって

私はそのチームにも入っていた。

この仕事に就くことは”当たり前”のように感じていたけれど

一方で「やらなくていい」という声もあって

ちょっとよくわからない、と思っていた。

もちろん、尋ね、祈り続けていた

でもずっと、やってくるのは

「やらなくていい」

「必要のある人にその椅子を譲るように」

ということだったのだけど

いや、それは私の自我がそう言っているのではないだろうか

というあまりにも当然過ぎてふんわりしている思考で疑っていて

その思考が本当に当然に思えて

だって、みんな一生懸命試作をして、メニューを考えて

忙しい中、準備をしている

それをすることが当然の中、

やらなくていいっておかしいんじゃないかと

本当はすぐに誰かに相談してみればよかったのだけど

一人で祈り続けていた。

結局直前になってしまって、あと一食、担当の人がいない分があるから

そこをやってくれる?という連絡が来た時に

それでもやっぱり変わらなかったので

正直にこれまでのことを話してみた。

それは自我の声だろうね、と言われることを覚悟して

そのままを打ち明けた。

ところが、そうなんだね、とそれ以上は何もなくて

もちろん、彼女は彼女で尋ね祈ったのだろう。(と後から話し合った時に聞いた)

そうして、私は料理のチームに居ながら何もしないで

当日を迎えることになった。

このおよそ1ヶ月の間

常に常に罪悪感が上がり、自分を責める思考が普通で真っ当に思え、

やらなくていい、という声を聞いていると感じているけど

やっぱりその一食、私が担当しますと言いたくて

言う方がずっと楽だと何度も思った。

私は意地になっているだけなのではないか?

このインスピレーションを信頼することは間違いなのではないか

と何度も何度も疑いが上がったけれど

その度に

本当は何もしなくても愛されているということや、

のりこさんの

ただただ癒しを受け取ることをするといいと思っていたよという声や

ヘレンにジーザスが言った

ただ愛してるってことを伝えたいだけなんだ

ということが浮かんで

それは、自我なのでは?意地をはってるだけなのでは?

という疑いよりも強くて

この不慣れな内容の声が強く伝えていることに

とどまることをするようだ、と感じることを

やっぱり信じよう、

やっぱり信じよう、の繰り返しで

それはその時の私には”忍耐”のような感じだったけど

”忍耐”し続けた。

当日、どんな顔をしてみんなに会ったらいいんだろう

と思うくらいの罪悪感がわいたので

行きたくないな、行けないよね、私にはその資格ないよね

という思考が浮かびながら

到着したけども

みんなは受け入れてくれていて

とても安心したし、本当にありがたかった。

それどころか、この私の打ち明けに、

やらなくてもいいんだ、って思えて嬉しかったんだと

話してくれる兄弟もいて

何だかとても力が抜けていった。

そして同時に確固としたものが自分の内側に

一段と確固とした感じになっていくように感じていた。

 

そう、力が抜けていく必要があるんだ。

どんなにテキストを読んでも

どんなにリトリートでカースティンたちに真理のあたたかい話を聞かせてもらって

あぁそうだ、と頭で思ったとしても

それは確かに受け入れてはいるのだけども

実際、現実と思っているその場その場で浮かんできている

ジャッジの思考をこれまで通り信頼して

自分を責めることを続けるのならば

本当に概念の域を出ない。

ジーザスが奇跡講座をヘレンに口述筆記させたのは

ただ、愛してると伝えたかっただけだった

そこなのではないかと思うんだ。

これまで信じてきたたくさんの責める思考は出る。

そりゃ出る。

でも、耳を傾けるのは、愛してると伝えたがっているところなのだ。

そこにカチッと合わせたいと心底思ったんだ。

そして、それをしたいと思う自分に、そうさせてあげることは

忍耐のような感じだったけど

この1ヶ月の訓練のような”忍耐”は

カースティンの個人セッションのあたりから、最終3日間で

うまく言葉にならないけれども

どうやらこれでいいらしい、と感じ始めていて

これは信頼していいことなのだと

今、本当にこれが新しいありようであり、生き方だと感じている。