消えていった

自分が蔑ろにされているという猛烈な怒り

私に与えられていない機会を

どうしてお前が享受するんだ?といういちゃもん

英語があまり話せず、

普通の仕事をしてお金を得ないといけないと思ってしまっているから

私はその機会に値しない、という烙印を押されたのだ

という勝手で卑屈な判断

あいつに見下ろされたり、先ゆく者のような顔をされるなんて屈辱だ

移住して従うことをしてきたのに

自分のやってきたことなんて大したことなくて

結局報われない、救われない

蔑ろにされて終わるだけだ

その一方で、あいつが癒しの機会に恵まれ

日に日に癒されて差がついていく

それは私が無価値だからだ

この、猛烈な、どうやっても本当に思える思考に

リトリート1週目が終わった月曜から2週目の二日目まで連日苛まれた。

きつかったけども

そうかと言って、インストルメントフォーピースをやって

自分が間違っていることを受け入れることも嫌だ

この考えを撤回することもしたくなかった

それでも、2週目の初日の朝バスの中で、このままの方が惨めだな

ということをなぜだか認めるということが起きて

それをみんなの前でシェアをしたが

完全には受け入れきれてはいなくて

3日目が終わるまでどこかしっくりいかないままだった。

マイティコンパニオンたちに話させてもらいながら
ただただ正直に過ごすしかできなかった。

ところがその最終日の片付けが終わって帰る間際

みんながハグをしていく中

私は本当にはその人は全く関係ないのだけど

その人が嫌だ、としている当該人物とハグをしなくてはならなくなった

もう、本当に嫌で

でも、何だか待機しているからしぶしぶハグをした。
赦したいと思っていなかったし、
相手をキリストと見たいなんて思っていなかったし
それを隠蔽していい子でいる気もサラサラなかった。

ハグしながら、嫌なんだよ、こういうの

同じもの持ってるんだからわかるでしょ?

融けあいたくないんだよ

と言ったけど、相手はスルーしていた。

しばらくハグをして

何かが自分の中で違うように感じた。

そして、何だか楽しくなってしまった。

 

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それから、全く知覚が変わってしまった。

しばらく(二日くらい)様子を見たけどやっぱり消えている。

本当に消えてしまった。

悔しい、というのも浮かぶことは浮かぶ。
でも力がない。

思考の上では決して負けたくなかったのに

まるでその相手によって溶かされたかのように

溶けていったかのようだったから

まるで負けたみたいで

屈辱だ、屈辱だという声はする。

でも、そこで負けたのなら、もはや勝つ必要がないなとも思えて

ホッとしてもいた。

もう、勝とうとしなくていい

勝たなくていい

もう、つっぱらなくていい

イケてなくてもいいし、頑張らなくてもいい

負けでダメダメでも、それでいいんだ

そんな風に思えた。

ものすごく肩の荷が下りて力が抜けてしまった。

そう、つまり、とてもしあわせなのだ。

決して勝てるはずもない愛に勝とうとし

争い続け、敵対し続けようとしていて

とにかく愛に屈することが嫌だったのだ。

そのために”誰か”を利用していただけだったんだ。

もう、そんなことしなくていい、そう思う。

 精一杯言葉にして綴ったけど
本当は全く、言葉にならないし理解もできない。

 

 この時以降(この感じはリトリートを通してずっとあったように思うけど)
表面的にどんなに自我的なようなことがどんなに沸いても

自我的な行動を自分がしたりしてしまっているように見えて責めたくなっても
それは自分のものではないんだなと思う。

自分の無意識レベルみたいな、本心の決断の部分が確固としてあって

本心の決断している部分が、本当にジーザスに従っていく

という信頼が今、とても強くある。

今日載せた写真に至る出来事は、このことを猛スピードで促進し

証ししてくれたように感じている。