兄弟姉妹の真の平安のためにどうぞわたしをお使いください。

毎日仕事には行っているけど

やる気とか頑張るとか

そういうことではない。

かと言って、やる気なくダラダラと仕事をしているわけでもない。

覚えられないので

PCの周りにたくさん付箋に書いた注意書きを貼っている。

まるで物忘れのお年寄りみたいに。

新しい注意点が出たらまた一枚増える。

毎日席は変わるので仕事終わりにはその付箋を回収して

次の日、仕事のはじめはその付箋を貼ることから始まる。

 

出てくるものを出しながら

時には心の中で号泣しながら

淡々とやるべきことを懸命にやっている。

これがどう続くのかどうなっていくのかわからない。

それでいい、と今は思うようになった。

わたしは「わたし」が脱落するのなら

もう、どんなに情けなくても受け入れる。

苦しさよりも平安が増している。

いや、情けなさや悲しみは溢れる。

妬みや嫉妬や憎みや蔑みや憎悪や怒りが猛烈に噴出する。

けど、苦しくはない。

字面はとても大変なことのように見えるかもしれないけども

実は平安なのだ。

 

行きたくないな、嫌だな、というのもあるにはあって

都度尋ねるのだけど

動けとは来ていない気がする。

そう、くるときは本当に明白にはっきりとくる。

いやでもわかる。

だから、今のやめるのかなーみたいなのは違うなと思うのだ。

 

1日に何度か、心にスーッと浮かぶのは

どうぞわたしをお使いください

ということ。

兄弟姉妹の真の平安のためにどうぞわたしをお使いください。

わたしにはなんの力も目的もなくて

お使いいただくことが生きていくことと少しだけど、そう思える。

 

以前は、自分で事業をやっていたし

ここに至っても最近まで

こうすれば、ああすればというのが

アイディアというかな、

浮かぶんだけど

今も出ないわけではないのだろうけど

興味が血が抜かれたように無くなっているようで

その力がなくて

あんなに猛烈馬力みたいにしていたのにな、と思う一方で

あのあらゆる全てを今は何一つわたしがやらなくてよくて

本当に大丈夫で

まかなっていただけて

昔のわたしは大変だったなぁと思う。

あれも考え、これを計画し

このためのお金を考え、もしくは稼ぎ出し

全部やる、みたいなこと

本当に大変すぎる。

なんのことだったか忘れてしまったけど

ふと、これも以前はわたしが頑張ってなんとかしていたなぁと

思ったことがあって

今、考えるのをやめるだけ、と気づいて

立ち止まり、尋ねて、なんとおっしゃっているか聴き、それに従う。

なんてありがたいことだろう。

本当に心底そう思う。