こんなわたしを受け入れてくれてありがとう

11月の勉強会、当日まで

わたしはミッションをクリアしなくては、

という思考が

ずっと頭の中を流れ続けていた。

出来ないということを受け入れるしか

道がなくなっていたのは事実なのだけど

レッスンを確実にこなすことができないならば失格

というエリート思考がずっと流れていて

出来ない自分を責めていて

落第したとか

もう何にも参加できないだろうとか

もう誰からも相手にされないだろうとか

全く価値なきものになり下がった

と思っていた

一方で、確かに全くどうにも沸き起こらないのも事実だと思っていて

それはまた情け無く思えたり

恥ずかしく思えたり

みじめに思っていた。

 

だから、勉強会で何一つできてない自分、

という姿で現れることは

完全に敗北感で

のりちゃんねるや、すごく強く動いていたのに

尻尾巻いて逃げたな、としか見えず

この負け感をどうしたものかというくらいだったのだけど

そのまましかないなと腹を括った。そのときできる分。

 

ところが、やっちゃったね、と言われない。

むしろ、いいよ、と言われてる。

え?いいの?という驚きと

崩れるくらいの安堵と嬉しさは

これまでで一番大きかった。

 

そのあと、ミーティングでラファエルとのりこさんがどう感じるか、とか、この日は参加できるか?とかと聞いてくれることや

チームミーティングにも参加させてもらって

居心地の悪さもあったし

だって、こんなとこにしれっといる資格、お前にはないぞ

と頭の中には浮かぶから。

でも、なんか、いてもいいようだ、という体験に包んでもらえていて、

また、思うことを言わせてあげることもできるのだともわかって、

すぐには馴染まないし落ち着かなかったけど

いいのだ、ということ

それを伝えようとしてるのだと感じた。

こんなことは初めて感じたもののように思った。

 

れいさんに、わたしには

一旦列から離れた奴は最後尾に並べ

というような

しれっと居てはいけない

という考えがやってくる

わたしは失格者だから

元のようにしてはいけないのではないか

という考えがやってくるのだ

と打ち明けた

いてくれて嬉しいよと言われて

なんてことだ!というくらいありがたかった。

同じことをケンタさんともコースケとも話して

またケンタさんも笑いながら言うので

もう、本当にありがとうしかない。

わたしだけが、

わたしのことををダメだと言っているだけなんだという証明を

仲間たちが笑いながらしてくれる。

 

わたしはここにいていいの?

何も責められないの?

ダメじゃないの?

失格、落第じゃないの?

すべてを一笑にふしてくれてありがとう。

本当にありがとう。ありがとう。

 

ジーザスの視点がこうなのだと

繰り返し繰り返し

みんなを通じて伝えられているのだと

ハッキリ感じる。