No peaple pleasing

何度も聞いて知っていること。

人々を喜ばせようとしない。

No peaple pleasing 

ミーティングのとき、

ラファエルの話が自分にはちっとも入ってこなくて

どうしても理解できなかった。

分かった範囲で、自分の感じたことは

嫌だな、無理だなってことだったのだけど

それを隠してうんうんと聞いていた。

ミーティング中これをやり続けた。

途中、のりこさんの顔が

いい加減にしなよ

と言っていたのを見たのだけど

わたしの口が動かない。

ラファエルはガッカリしただろうな

という考えがよぎる。

口が動かないまま帰宅になった。

どうしたらいいかわからない。

帰宅した頃か、深夜かにのりこさんから

「完全にpeaple pleasing の顔だったよ」

とメッセージが来た。

そうかもしれない。

でも、もはやフリーズで

自分がどう考えてるのかどう感じているのか

わからなくなってたんだ

と吐いた。

 

わかってあげよう。

わかってあげたい。

わかってあげなくては。

寄り添わなくては。

という考えは真っ当なものだと思っていて

そう思っていることすら

見えなくなるくらい浸透したものだったようだ。

いざ、自分が感じることと真反対のことを言う人を前にすると

また、その人は自分よりもガイダンスを聴いていると思っているから、問答無用のようにも思えていて何も言えないどころか

喜ばそうとしてしまっていたのだ。

 

 

そもそもわたしは、はっきりと

NOを言うことが苦手で

いつもこのことがレッスンなのだけど

その奥を見れていなかったのだと思う。

翌朝、のりこさんと引き続きやりとりをしていたときに

『好かれたり、愛される必要がないの

嫌われてもいいの。

そういう幻想は、存在していないから』

というメッセージがきて、

あぁ、わたしは愛されよう愛されようと

愛されたい愛されたいと

思っていたんだ、ということが

読んだ瞬間、見えて、

崩れ落ちるようにわんわん泣いた。

わたしは、愛されようとか

愛されたいなんていう、安っぽい人間の願望は

とっくに捨てたと思っていたのだ。

なのに、愛されようと思っていたなんて。

No peaple pleasing、を理解していると思っていたし

気をつけている、実践していると思っていた。

とんでもないショックがあって(ガッカリという意味ではない)

その日は丸一日、グッタリだった。

 

『愛される必要がない』

この一言がわたしにもたらした衝撃は計り知れない。

この裏には、

『既に常に愛されている』ということが即座に伝わるから。