真の願望に仕える

私はいつも、
自分が”本当にこれをやりたくてやっている!”
というポジションや状況にならないように
少しズレておくようにしていて
やりたくてやっている、だと逃げようがないし
うまくいかなかったら格好悪いし
だからいつでも逃げることができ
言い訳が真っ当になるようにポジション取りをし
やりたくてやっているのではなく
犠牲的であるようにしているなぁと
多分、4月に入ってからだと思うけど
ある日、突然思って、うわーそもそも生き方が"犠牲者であること"だったんじゃん、となった。
いつも、何か大変さや、困難さや、うまくいかない言い訳が通るように
計らっているのだ。
"一生懸命全力で大好きなことをやっている人"だと
言い訳も被害も犠牲も成立しなくて
それは自分には不利益、損なこと、と完全に信じていた。
 
妹と暮らして彼女を見ていて
彼女は言い訳や犠牲者感の視点がないと気づいた。
抑圧しているかどうかはわからない。
私には、彼女には犠牲者感がないように見える。
仕事は本当に忙しそうで、四六時中働いているが
被害や犠牲の主張がない
望んでやっているということを明確にしている
食事を楽しそうに作る。忙しいのに。
あなたのせいでせっかく一人暮らしの家が狭くなったとか
あなたがやらないから、忙しいのに食事の支度しなきゃならなくて、更に忙しいとか
養わなくてはならなくなったじゃないか感を一度も向けられたことがないし
そんなことをふつふつ思っているなと感じたこともない
むしろ、私がやること、言うことが
被害者じみている時、怪訝な顔をする
やりたくてやってるんじゃないの?と。
彼女にはその視点しかないんだ、と最近思ったとき、
あぁ、私はいつもいつも「被害者でいようとする生き方」をしてたんだ
となぜか突然、すごくクリアに見えたのだ。
被害者が大好きだったんだと気がついても
被害者になれるスペースをとっておいて、いつでもそこに入って
被害者になれるようにしているのだ。
OMG
でも、一体どうしたら彼女のように思えるのかわからなかった
妹とのりこさんは似てる、とよく感じていたのだけど
多分、この部分が明確なことではないかと思う。
私にはどうしたらいいのか、”被害者スペース保持ライフ”が身につきすぎていて
わからなかった。
 
それが、勉強会で思いがけずスッキリした。
私は、願望をはっきりさせることを避けてきて
だから、なのかはわからないけども
「仕える」先が迷走してしまっていたのだ
 
今、すごくクリアだ。
自分の「真の願望」の
この夢から目覚めることが望み
終わらない愛、神の愛が欲しい
私は正気にかえりたい
永遠の平安の心の中での復活
という私の心底の願望に仕えるんだ。
私が仕える先は、そこだったんだ。
これが、本当に私を嬉しくする。
ファンクションや、何かに仕えようとしてしまうと
何か見失う感じがしたり、嫌だなとなってしまったりしていたけども
心底の願望に仕えるから、何か今現れているやるように感じていることをやるんだ
あーーーーー!そうだ!そうだったんだ!
本当にありがとうございます!
猛烈にスッキリしている。