2016.5.25

<p>最近はマニュアル編を再読している。<br><br>

奇跡講座マニュアル編p52<br>

まず最初に、彼らは「取り消しの時期」とでも呼べるような期間を通過しなければならない。これに苦痛が伴う必要は無いが、普通はそのように経験される。あたかも、いろいろなものが取り去られていくかのように思える。そして、それは単にそうしたものの価値の無さが認識されつつあるにすぎないということが、最初のうちはほとんど理解されない。知覚者がものごとを別の見方で見ざるを得ない立場に置かれない限り、どうして価値の無さが知覚され得るだろう。彼はまだ、その転換を完全に内側においてのみ行えるところまできてはいない。したがって、その計画は、ときには、外的な環境のように見えるものの変化を必要とすることがある。こうした変化は常に助けになる。ここまで学んだとき、神の教師は第二段階に進む。<br><br>

これを夕べお風呂で読んだとき、そうか、あの<br>

あー、このバイヤーと仕事をするようになったのだから、がんがん仕事が軌道に乗っていくなぁ、<br>

みたいになった後、人事異動でその人達が一斉に異動してしまうっていう、何コレ?現象は、この「取り消しの時期」だったのかな。<br>

通帳とお金が無くなったのも、そうだったのかな、という考えが浮かんだ。<br>

"価値の無さが認識されつつあるに過ぎないということが、最初のうちはほとんど理解されない"←まったくだ‼︎笑<br>

"したがって、その計画は、ときには、外的な環境のように見えるものの変化を必要とすることがある。"←外的なことを信じてしまっているから、それが取り去られていくように見えるし感じるし、苦痛や辛さのようなものとしてしまうのだけど、それこそが、"助けになる"ものなんだ。とはなかなか思えなかったなぁ。。。<br>

弁別、放棄、安定化の時期を経て、不安定な時期、とのころもビンビンきた。<br>

p54<br>

今になって、神の教師は何が価値あるもので何が価値なきものか、自分は真にわかってはいなかったと理解しなければならない。その時点までに真に学んだことは、自分は価値なきものは望まず、価値あるものは望むということだけだった。しかし彼自身による弁別は、自らにその相違を教えるには無意味だった。彼自身の思考体系の核心をなす犠牲という概念が、彼が正しい判断をすることをまったく不可能としていた。…彼はすべての判断を脇に置くことを学ばねばならず、あらゆる状況下で自分は真に何を望むかということだけを問わねばならない。<br><br>

合宿のときの、のりこさん、じゅんこさん、れいさんの様子を肌で感じれた、あれを思い出す。<br>

降参しかない。ていう、あの姿勢。<br>

と、いうことを読んでいて思った。<br>

それから、シャンプーをして、わたしは少し肌が敏感で、アレルギー気味なので、炎症を鎮めるには水をかけるといい、と美容院で言われたので、シャンプー全部を水でやるのはさすがに辛いから、最後にシャワーを水にするようにしているのだけど、水に変えよう、、、と思いながらリンスを流しているときに、かゆみがおさまったり、フケが治るのと、水でやるのは関係ない、突如治ってもいいのだけど、脈絡がないと、受け入れ難いから、水でやるといい、という外的な要因を使う、薬も同じ、ということが浮かんで、そうだなぁ、信じているけど、そこに原因は無いし、関係ないんだよねぇ、と思った。<br>

のりこさんがよく、信じない練習ということを言っていたなぁ、と。<br>

いまは、こういうとき、おしえてくださって、ありがとうございます、と自然に思えている。<br>

自分の手柄にしたがってたからね、以前のわたしは。それを捉えないと、本当にやめれない。</p>