4月カースティン、フランセスリトリートに惹かれるな、という方に読んでいただけたら幸いです

10月のリトリートから始まった、ドキュメンタリー映画撮影に

関わるようになっていった11月、12月は

本当に猛烈で、凄まじい日々でした。

コーリングがきているのはわかっていて、

わかるよりもむしろ、明白だったのだけど

呼ばれる方に進むことはとても怖く感じていました。

このコーリングに応えることを先延ばしにしても苦しいだけ

今、飛び込んでみよう。

私はいつも何でも、先延ばしにしがちだ。

もうやめよう。

どうなってもいいや(苦笑)と、全てから手を離して飛び込むことにしました。

目覚めとか、献身とか、心の真の平安を求めていたはずの自分が

実はそんなことよりも、この世界がうまくいきさえすれば良いと思っていて

ほとんどの時間、求めているのは

神ではなく偶像や形態ばかりだ、ということが露わになり

どんどん”自分”が崩れ落ちていきながら身を捧げていきました。

実際に、この世界で”私のもの”としていたもの

考え、信念、物、家族、仕事、自分というイメージも

次々放棄し

(放棄させられた、奪われた、と思っていました)

抉り取られるようなキリキリとした感覚が毎日続き、

抉り取られ続けて

12月のある日、本当に、目の前で起きていることと全く関係なく

落下が起き、崩壊し、号泣し続けました。

しばらくの間は、損失ばかりをみていましたが

1月の半ばを過ぎた頃、2018年は恩寵だったのだ

コーリングに応えて従って参加した12月の映画撮影は、

あれは恩寵だったのだ!と

嬉しく、あたたかく、ありがたく感じるようになってきたのです。

何一つ奪われてなどいなかったし、

当時は本当に信じていたので

自分はとんでもないことをしているとか

聖霊に従うことを意志すると

恐ろしいことになっていくじゃないか

などと思っていたけれど

とんでもなく危険なことや恐ろしいことなど何もなく、

抉り取られたことは、本当に本当に安全で平安なことだったのだと

本当に恩寵だったのだなと

今、嬉しさと、ありがたさと、喜びと安堵で満たされるような感じなのです。

聖霊の導きに従って、聖霊がいて欲しいという場所にいて

聖霊がして欲しいということをして

ただそうしていると、なんだかわからないけれども

とても嬉しい、という安堵感に満たされるのです。

何が起きているかとか、お金がないとかあるとかということに

価値を感じることが薄くなってきているように思います。

聖霊に従って生きることは本当に安全、とカースティンが言っていたけども

私も、自分が実際に歩いてきて、歩き始めて、本当にそう思い始めています。

 

 

鈴木祥子