2018.7.21

Facebookのデイビッドの18日の記事を順子さんがシェアしてくれていて

それが目に飛び込んできた。

きっちり読もうとなぜか思い、

丁寧に読んだ。

見落としていた記事だった。

good byeについて書いていた。

最近、お別れ、おしまい、終わり、というものがレッスンだったので

すごくしみた。

We can never really give up anything of value.

(私たちは本当に価値のあるものを決して放棄することはできません)

 

終わりやお別れには、エゴは損失や悲しみをみるけれど

本当に価値のあるものとは離れることが決してない。

 

そうか、そうだよな。と思いながら読んだ。

 

ふと、自分の6月の勉強会を見ようと開いた。

後半を見よう。

のりこさんが、隠れてないですがたを現すように、

あなたはそうなって行くと思うけどね。遅かれ早かれ。

みたいな話をしてくれていた。

そのあたりを聴きながら、ふと、預言カフェの音声を思い出して

勉強会のを途中で止めて

預言カフェの音声を聴き始めた。

「心配しないで、隠れてしまうものじゃなくて

人との時間が祝福されます、と主が言われます。」

「隣にいる人、あるいは関わる人、その人たちに対して

恐れないでもっともっと歩み寄ってください、と主が言われます」

「これからもっともっと変わっていきます。状況の変化、そのことが与えられて

自分がいた場所、そして自分が選んだ道、選んで決断したことが

本当にこれで良かったと感謝できるような結果、そして祝福を

あなたに体験させますと、主が言われます」

 

号泣。

 

全ての言葉が、今年の私を指し示していたなぁ。

 

あの時も、確かさを感じてものすごく号泣したんだ。

だけど、疑いがあって、これ、どうなの?みたいなことを

また、これは本当だよねと、例えばのりこさんに言ってもらったら受け入れる

みたいな感じがずっとあって

なんども録音を聴いてもらいたいなどと思っていた。

 

おそらく、のりこさんに確定印を押してもらうまでもなく

そして預言カフェを本当は通さなくても

ずっとずっとこれは私に伝えられていたことで

私が耳を塞いで聞こうとしなかっただけ。

耳を塞ぎながら、教えて、助けてと言って

自分の都合、好みで聞いていることを、

聖霊に耳を傾けている、と歪めて

出来てる人でいようとしていたんだな。

 滑稽だなぁ。。。

 

もう疑わない。

疑いが出ても、聖霊と眺めよう。

私が手を離さなければ、離れることがないんだ。

手を繋ぐどころか、私の中心に入っていただこう。

そう、私の中心にどうぞ入ってください。

そこで、私と一緒にいてください。