2015.9.17

<p>わずかな意欲を差し出す、と言うが<br>

やってるのになぁ、みたいになるのはどうしてだろう?と思っていた。<br>

結局やる気がない、ということだろうか、みたいにもいきかねない。<br>

意欲を、やる気と置き換えると、コースを学ぼうとしているわたしたちにそれがないわけがない。潜在意識では抵抗があるとしても、わずかな、でよいと言われているから、やってるのに、となる。<br>

意欲は、やる気ももちろんかもしれないのだけど、<br>

信頼、でもあるのではないか。<br>

聖霊への信頼、神への信頼。<br>

わずかでも、ここがなければ、明け渡しなんてできない。<br>

これが、少しずつでいいから、信頼していけるといいと言ってくれている。<br>

最終的には全託だから、100%の信頼となり、任せることになる。<br>

自分でやろうとしているとき、やっぱり信頼していないのだと思う。<br>

任せきることへの恐怖、不安があるんだ。<br>

ここは自分としてはこう着地しときたい、これがベストなシナリオみたいに、コントロールしようというのがこっそりある。<br>

聖霊がそのようにしてくれるかわからない。<br>

ここ。<br>

だから、意欲(=信頼)を差し出せない。<br>

というわけで明渡さない。<br>

で、つらくなる。爆。<br>

自我の諦めは必須だが、自分に繰り返し教えないとだなぁ。<br><br>

歯の治療をするにあたっての、被せやインレーを金にしないと歯がダメになるとか矯正も必要とかの病院からの治療方針について、その通りと同意して、でも、そんなお金無いじゃないかという恐怖、不安をどうしたらいいのか、と混乱している。明け渡せない。明け渡して、莫大なお金が請求されたらどうしよう、明け渡して、歯がぼろぼろになったらどうしよう、と思っている。どっちにしても、でっち上げなんだ。起きてないことを起きたと信じてしまった自分丸ごと聖霊に捧げます。</p>