2017.2.17

最近ずっと気になっていたことがあった。

勉強会で多分レイさんがシェアしてくれたから読んだテキストの文章で

分離(または罪)が本当ならば、こうだよね、こういうことになっちゃうよね、っていうことが書いてあるところ。

当時、「学んでいる気の私」は、うんうんそうだよね、って理解した、みたいな感じだったんだけど、最近になって、実はあまりに馴染みがありすぎてスルーしていたというふうに見えて、改めて読みたいなぁと思うようになったので探していたのだけど

全く見つけられずにいた。

テキストを読むとき、間違えていたということではないんだけど、

以前の私は、自我について書かれているところよりも、

聖なるものについて、光について書いてあるところを読みたくて

そっちばかりを追っていたなぁと最近思うようになったのだ。

でも、学ぶべきはいかに自分がドロドロとどす黒いものを持ってしまっているか、であり、それを吐き出していかなくてはいけないわけだから、

しっかり知って直視するべきなのは、自我について書いてある部分だったんだということが理解できて来たのだと思う。

気になって気になって

漠然としすぎていてのりこさんに聞くにも聞きにくいなぁと思ったけどLINEしてみた。

でも、そこは多分違うんだよなぁというところが返って来て

そのままにしていたら、違いましたか?というLINEが来てそのやりとりをしながら

テキストをパラパラとみていたら

ずっと後ろの方みたいな感じがして(前の方だと思っていた)

本当に後ろの方を見ていったとき、ここかも、というところに行き当たった。

 

31章Ⅲ

1 自らを責める者だけが有罪宣告を下す

 

3−7 もしあなたが罪であるのなら、あなたはまさしく一個の肉体であるということになる。なぜなら心は行動しないからである。そして目的は、心の中ではなく、肉体の中にあるはずだということになる。肉体は独自に行動し、自らを動機づけるということになる。もしあなたが罪であるというのなら、あなたは心を肉体の中に閉じ込めて錠を下ろし、心の目的をその牢獄に与えているのある。そして、牢獄が心に代わって行動する。

 

5 自分が罪であると考えている心には一つの目的しかない。それは、肉体を罪の源にすることである。すなわち、心は自分が選んで保護している牢獄の中に自分の罪を閉じ込め、自分自身を、そこから遠ざけておく。そうして自分を眠れる囚人とし、獰猛な唸り声をあげる犬のごとき憎悪や邪悪さ、病気や攻撃、苦痛や老化、悲嘆や苦悩といったものの囚われの身としておくのである。ここに犠牲の想念の数々が温存される。

 

7−3 変化に対して心を開きなさい。

7−4 神は、求めることのできる犠牲など存在せず、与えることのできる犠牲も存在していないと、言ったからである。

 

でも、テキストは大半、自我について書いてある。

ここだけとか、ここは違うんだよね、とかっていうことではないんだよね。

表現を変えて、角度を変えて、自我の説明を妥協なくしてくれているんだな。

私も、しっかり妥協なく、読んで、認めて、捧げていこう。