2018.9.3

8月30日でアルバイトを退職した。
たった1ヶ月で辞めるなんて、高校生や大学生の小娘じゃあるまいし

という思考が渦巻いたりもしたけれど

手が痛いのを頑張らせるなんていう、まるで奴隷めいたことを

しなければならないのか

そのようなことを聖霊は指示しているのか

逃げではなく、自分のため、みたいなものでもなく

祈り、尋ね続けて

いや、むしろここで辞めることもみっともないわけで

どっちにしても私はプライドを維持などできず

それは本当にありがたいことだった。

 

退職の希望の相談の際は1時間以上引き留めというか

責めるような言葉を聞き続け

それは人数が増えてもう1日あって、

実際自分は折に触れ

自分にわからないように自分を責めているわけで

そのわかりやすい姿だったと思うし

また、具体的な罪悪感、罪を目の前に見た、かのような感じで、

目の当たりにすると、本当にきつかった。

今回の退職の話をするというレッスンは、

この半年続いてきた「やめる」ということを自分が切り出すという

それの集大成みたいな感じがするものだった。

話が決着した時、それと、最終日、「終わった」という感じがすごくした。

仕事が、とか、話が、とかじゃなく、

何か、課題のようなものの一区切り、「終わった」ような感じ。

だから、のりこさんがメッセンジャー

「お役目ご苦労様です」

 

このアルバイト期間の半分以上ほとんどが

「自分を赦さない自分」を見ることの時間で

自分を赦すことを本当に望むためのものだったように思う。

 

たった1ヶ月だったけど、感覚は3ヶ月くらいはそこで働いたみたいな感じ。

ただ、面白いことに、1日も行きたくないと思うことはなくて、

朝は早起きが苦手だった私が

6時半に起きて、お弁当を作って

暑い中歩いて出勤していたのだ。笑

なんならそれは、楽しく出社、だった。

きつい状況みたいな時期も、それに留まらずにいられた。

「信頼」を深める期間でもあった。本当に。

 

31日母の用事をしたり、体を休ませたりして、

さて、みたいな感じがしたと思ったら

1日、起きるなり翻訳をし始めた。←どうした?私?

そこから、のりこさんのホームページにのせるメッセージを書いたり

友人たちの企画展の手伝いのDMデザインやホームページを作ったり

自分のブログを書いたり、facebookのシェアや投稿や

なんだか次々、次々ずーっと2日間、

気がついたらクルクルといろんなことをやった。

止まったり躊躇したりすることなく、クルクルと。

自分の意思でやってないのがわかる。

なぜなら、自分が避けていたことまでやっているから。

facebookのカバー画像をJesus in Japanの画像にするなんて

狂ってる(笑)

(そうだ、カバー画像に関しては、ラファエルが作ってくれた非公開のグループページのカバー画像を私も使おうかなというのが出たのだけど、躊躇していたのだけど、ホームページが出来てシェアされた時、これだ!となって、すぐにカバー画像にした)

 「私」は、大丈夫なのか?やめたほうがいい、等々言うけど

動じない人がやってる。

側で見ていたら、なんだか急に猪突猛進だなこいつ、的な感じなのだろうか(苦笑)

 

ちょっとした不満みたいなものを言ってる部分がなくもないのだけど

体はクルクルと動いている感じだったんだ。

使われると案外いろんなことができるんだ、という感じ。

とても忙しいけど

安堵感のようなものだけが広がっている感じというか

考えず、計画もせず、こんなに動いたことないなぁ。。。

もちろん、その途中途中に、不満や批判のような思考が

やっては来るんだけど

まぁ即座に消される。その説明もしてくれる。

大丈夫感がすごい。

 

 

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