従うということ
気づいていたけども見ないでいたものの一つで
人に指示をされることが嫌い
ということがあります。
誰にでもあるのかどうかわかりませんが
私は先手で指示されるのが猛烈に嫌いです。
そのくらいわかるわ、とか、今やろうとしていた、という
タイミングで指示がくるなんてのは最悪です 笑
指示をしてくる相手が間違っている、
という視点を決して譲る気が無かったので
自分のこの心の中の戦いに気づいてはいたけど
譲る気が無かったので
深く見ていくことをする気も起きていなかったのだと思います。
指示されることが嫌=従うことが嫌
ということに目を向けたのは最近のことです。
どんなものにも
はいそうですか。わかりました。
と言うなんて胸糞悪いことない、と強く強く思っていました。
でも、従う、という毎日を過ごしてきて
完全なる崩壊まではいっていないけれど
なぜだか猛烈さが減っているのを感じています。
嫌なんだよね、と離れて見ることが起きているのです。
テキストを読んだり、YouTubeを見たり
リトリートに参加したりでは
起きなかったことです。
本当に理解し、生きていくということの深さを感じています。
なんどもマトリックスを思い出すんです。
Neo. You’re sooner or later, going to realise, just as I did.
There’s a difference between knowing the path and walking the path.
「ただ道を知っているのと、道を歩いているのとでは違う」
道というのは、経験、体験という意味を含んでますね。
本当に本当に本当にそうだなと感じています。
普通の仕事をする人はたくさんいる。
けど、イエスの仕事をする人間がいなくて人手不足なんだよ。
それをやって欲しいんだよ、イエスは。
とのりこさんに言われたのは、今回の旅の前にも一度ある、確か。
コースに惹かれる者としては聞こえがいい
でも、猛烈に嫌で、普通がいいとついこの間まで思っていた。
それが今回、なぜだか随分と素直に、
イエスのもとに就職しようかなと思っていて
我ながらとうとうイっちゃい始めたな、という感じ 笑
ま、それでいい。