車について、少し前にも書いたけど

重複もするけれど、書きます。

 

私は運転が好きです。
車も好き。

だから、車を所有しなくなるなんて嫌だったし

考えもしなかったことでした。

特に、母を乗せてドライブに行くのが好きで

この時間がずっと続くことを願っていました。

仕事で荷物を運ぶ必要もあったのでマストだったということもあったけども

公共交通機関で移動するということを蔑んでいたような部分もありました。

 

でも一方で、車の維持にはとてもお金がかかるし

税金も払わなくてはならないなどという

負担、や、ストレスもあって

手放した時には、肩の荷が下りたような感じもあったのです。

聖霊に従って行なっているので、その安堵、開放感もあるので少々綯い交ぜになってますが)

好きで、手放したくないものなのに、負担を感じていたのだなと

とてもおかしく感じました。

 

どんなに維持が大変でも、母の役に立つためには

母を楽にさせてあげるには、車を手放すわけにいかないと思っていたし

仙台は車社会で、車保有をしていたのに

それをやめたら、まるでうまく立ちゆかなくなった人みたいで

格好が悪い、という見栄もあった。

なにせ、公共交通機関利用を蔑んでいたから。

 

いろんなものを持っている方が見栄えがいいと思っていたわけで

そんなプライドを保持する象徴が車所有だったという

心の奥の企みのような側面があったわけです。

これらの心の執着に一つ一つ取り組んだのではなく

別な形でやってきた聖霊の声に従うことに取り組んでいったら

これらの心の執着も見えてしまった。

聖霊は本当に完璧だ。

もちろん、見えたからには、これを完全にやめていきたい

という意欲を聖霊に話し差し出しました。

 

 

今は毎日徒歩と電車。

仙台ではほとんど歩くことがなかったので、少しでも歩くと

向こう脛が痛くなっていたけれど

(ふくらはぎが筋肉痛、に至る以前に、向こう脛の筋肉が衰えていたってことなんです。。。汗)

今は随分健脚になりました 笑