2018.4.9

全くわかってなんかいなかったんだな、と思う。

 

7日の体験はいまだにお腹の奥がガクガクしている。

剥がれ落ちたものは、これまでになく、たくさんあったと思うけど

それによってなのか

私はちっとも自分を赦していない

という強烈な反映を見て

動揺してしまった。

 

そういうことだったのか、みたいな。

 

私は自分を赦すことを

本当にしていたのか?

 

赦しには取り組んできていたとは思う。

けど、自分を除外していたのではないか。。。?

 

母に投影してきついことを言ってしまったんだ。

少しきつめのおふざけ、にしちゃやりすぎたかな。

ところが、それで彼女がシクシクと泣き始めた。

本当に悲しそうに心底泣いていた。

しまったとは思ったけど

プライドと恐れから認めたくないと思っている自分が

昨日は見えた。

コースを自我の次元に引き摺り下ろしたのも。

でも、引けなかった。引く気なんてなかったんだろう。

1時間ほどの水掛け論。

私は悪くない

がはっきり見える。

でも、やめれなかった。

夜、勉強会の自分の部分を聞き直しながら寝た。

 

翌朝、リンゴを剥いて欲しいと頼めず(剥く動作の時、痛みもあるし危なくてやらないようにしている)

自分でヨタヨタと剥きながら、

これが、全身が動かない寝たきりみたいな状況だったら

剥いてもらったり、口に入れてもらわないとなんだな、

と、勉強会でのりこさんが話していたことが頭をよぎった。

やってもらうこと、お世話になることを受け入れるって

やれない自分を受け入れないと難しいのではないだろうか。

こんな私は、ほって置かれて、体に虫がわくのではないか、などと

恐ろしい妄想をし始めた。

少しぼーっとしていたら

謝ってよかったのに、というのが浮かんだ。

あぁ、私は謝ることすら悪だったんだ。

謝ってしまったら、なんとかないことにできている罪を認めることになる。

謝ってよかったのに、とまた浮かぶ。

あぁそうか、真には私は何にもしていないから

ここでの展開としての言ってしまった、も受け入れていいし

ここでの展開としての謝罪も、なんら問題ないんだ。

真には無辜だという、贖罪を受け入れたなら

ここで謝ることは単なる展開に過ぎない。

なんども聞いているし、初めの一歩みたいなことなのに

微塵も受け入れていなかった

こんな風に感じたのは初めてかもしれないくらい。

肩肘張っていたんだなぁと

すごく自我的な表現だけど、落ち込むというか、がっくしという感じだ。

 

わからないこと

できないこと

間違うこと

人のお世話になること

助けてもらうこと

頼ること

養われること

庇護下になること

これらが、条件付きとか、自分の方が上であることを保てずにとか、

つまり、「完全に」自分になされるなんてことは

惨めで

みっともなく

ダサくて

悲惨だと

どうにでもして避けたかった。

勉強会でのりこさんに、何ヶ月か前にきたよ、と

言われたけど、

私もきてたなと思った。

ガン無視してたけど。

きてた。

どうも、このお世話になる、養われるみたいなのが

去年のいつ頃からか、きていたと思う。

でも、無理だったんだ。。。

はい、そうですか、わかりましたっていえばいいだけなのだろうけど。。。

 

自分を赦せないんだよ

と言うけど。

今回、本当に赦せてない、赦せないんだということが

本当に骨身にしみた。

 

そして、これらを受け入れるって、

聖霊の助けなしに無理なんだ。

ということを、7日にはっきりと見せられた感じ。

 

赦せない。

私には。

でも、聖霊に身を投げ出す。

時間の引き伸ばしはしたくない。

 

 

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