2018.4.29

甘えない、という

独立した、自立したオレを支えてきた信条があった

 

昨日、ふと、スーパーのレジの人がしてくれたことに

「すみません」

と自分が言っていることが視界に入った

気持ちは「ありがとう」なのだけど

口からは「すみません」と言っている。

すみません、をありがとうの代用にしている。。。

 

どうして素直に「ありがとう」ではなかったんだろう

していただくことに罪悪を感じるのかな、、、と見つめてみた

 

「ありがとう」

のイメージが

どうも、

諸手を挙げて委ね甘える姿

で、

しっかり、強くあらねばならないというものにとっては

していただいてありがたいのだが

自分が至らなくて、しっかり強くない部分があって

「すみません」

になっていたのだなぁと感じた。

 

メッセンジャーでマイティコンパニオンたちとのやりとりの中なんかでは

ありがとうを使っているけれど

全てが完全なる信頼の諸手を挙げた「ありがとう」ではないようにも感じる。

感謝はもちろん、あるのだけど。

 

あくまでも言葉は象徴。

でも、隠しているものがある。

そして、この、「ありがとう」の

『諸手を挙げて委ね甘える姿』は『溶けて一つになってしまう』のだ。

それは嫌だ、という分離維持の死守を

無意識にバレないように、

すみません、とできる感じがする。

 

諸手を挙げてもっと信頼していきたいと思う。

 

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