9月にはわからなかったこと

9月のリトリートの動画の作業をしている

自分に対する”攻撃”や”非難”のような言葉が多い動画だ

具合悪くして、帰りたくてとても辛かったが

この兄弟たちの話を私は泣き崩れることもせず聞いていたよなぁ。。。

と思う。

彼らの発言は本心の本心ではない。

そうとわかっていても、とても辛かったのが正直なところだった。

でも、あのとき彼らのエクスプレッションを聞いて、強く平気な顔をしていたことが

今ちょっとよくわからない。

 

作業のために聞いているわけだけど

ちょっとヘビーに感じる時があって、休み休みやっている。

今の方が聞くのが辛いような気がしている。

学習者たるもの

何を言われても、それは投影だから

何を言われても大丈夫

絶対に崩れない

平然としていよう

弱みを見せないでいよう

って思っていたなと思う(当時の見方は違ったと思うが)

だからだろうか、鉄壁の防御で、何を言われても響かなかった(と思う)

のりこさんに泣きついて、買い物に行きたくないと言った時

具合悪くても這ってでも行って来いと言われた時は

嫌だと泣いたけど、全員が座っている席では絶対しなかっただろう

 

震災の時も大丈夫な私でいた

10年経っても、あの震災を「越えた私」でいようとしてきた

この世界での感情に取り込まれてはいけないと思っていて

相手の口から出てくる弱音には決して応じない

はねつける

それらは正さなくてはならないもの

であって

それに負けてはならないと信じていた

いくつも動画を見て、あの揺れの後

余震と津波を前に呆然とする人たちの悲痛な叫びをはねつけたい気持ちばかりが先に立っていたと思う

 

そりゃ、苦しくなるわ。。。

 

強いものであるってのは

一緒になって泣いたりしちゃいけないってのは

つまり、単に勝ちたいってことでしかなかったわけで

わたしには、コース学んでいるとか関係なく

「寄り添う」っていう大事なものが欠落してしまってたんじゃないだろうかと思う