2018.2.10

こちらに来て、買い物をしたり食事をしたりしているわけだけど


当然のように


お金がなくなる


という思考にはまり始めた。



ライブなんかでよく、


ステージ上の人がお客さんに


アリーナ席盛り上がってるかーとか


煽って、


お客さんが応じて


イェーイとかオーーーとか


やるけど

(と言っても、わたしはライブに行ったことがないので、その光景を生で見たり体験したことはないけども)


同じように、応じたくて

盛り上がりたくて



ヘイ、ヘイ、ヘイ!お金がなくなっていってるだろ?


イェーイ


不安になってきたんじゃないのか?


イェーイ


まだまだいけるだろ?


イェーイ


まだまだ不安だろ?


イェーイ


税金も払わなきゃだろ?


イェーイ


支払いもあるだろ?


イェーイ


無いんじゃないか?


イェーイ


払えないんじゃないか?


イェーイ


どうするんだ?


イェーイ


もうダメなんじゃないか?


イェーイ




てな具合にハマっている感じがする。

当たり前のように。


あれはどうするんだ?

これはどうするんだ?

という思考を追いかけること、は、

当然だと思っていた。

その思考が出てきて、それを追求しないなんて、罪悪、罪だと信じていたんだなと、いま、感じている。


このことを具体的に、はっきりと

暴かれて明らかに見えてきている。


このように、なかなかできずにいて、明かされない、暴かれないということが継続されていたと感じている。


怖さはあるけど、

「ある(と思ってしまっている)もの」を

隠さず、ありのままに見つめていきたいということが優っている。


お金がないということを見つめることが怖いのだ


と思っていたり、


実際に無くて、


無い


ということが怖いと思っていたりしているけど


その思考の源となっているもの

その思考の供給源となっているものが

実は無いのだ

と真に知るには

咎めず裁かず

ただただ見つめ続けて

自分が持っていた思考を明らかに見ていくことなんだなと思う。