隠さない

いかにどれほど、目に見えるものを信じているか

目に見えるものを追い求めたいと思っていたか

これらによってこそ、幸せになるのだと

やはりいまだに信じていたのだとということを

まざまざと見つめざるを得ませんでした。

神を求めたいと口では言っていても

腹のなかに隠し持った、偶像の方が良い!

がめちゃくちゃあって

それはつまり、この世界的に自分の人生が、毎日が、

イイ感じになればそれで良い、ということなのだけど

それを隠し、蓋をし、

「目覚めるものである私」というイメージを

追求していただけだったかもしれないとすら思えている。

とはいえ、私の中の聖なる部分、聖霊の部分は

それでも確かにあって、正気に返る方を本当に求めてもいる。

引き裂かれるような毎日でした。

私、神を求めるよりも、自分の良い感じに生きることの方を

全然、めちゃめちゃ望んでるんじゃん、ということを認めるまでは。

 

言うほど簡単に認めることはできませんでしたし

その深さで言ったら、まだまだ必要かもしれません。

 

私はコースを学習しながら5年間見ないようにし

優れた学習者であることこそが目覚めに繋がるとばかりに

そうです、神を求めます、と言うだけだったわけですから。

もちろん、それは嘘ではありませんし

真に求めてもきました。

でも、奥底に隠したものがあるままでは無理だったと

 9月くらいから、徐々に徐々に見えてきて

トドメはリトリートと、それ以降でした。

 

今年ずっと、私はいろいろなことを「手放させられてきている」

と感じていました。

それは放棄であり、奪われる、でもありました。

11月になって、今年最大のように思える「放棄」と「奪われる」の中

前にも後ろにも進めない、進退極まったようなところまで追いつまった時

私の頭の中ではすべてを失う、ということばかりがぐるぐると回っていました。

「これを棄てたらどうなるのだろう」

「これを告げたらどうなるのだろう」

追い詰められた中で、

究極の行動みたいなものの選択を迫られているように感じていたので

決断しようと思うと恐ろしかったわけですが

どうしても、「すべてを失う」

という信念から離れることができませんでした。

私はこの信念を、聖霊に渡さずにどうしようどうしようと言って

オロオロしていたのだと全く気づかなかったのです。

うーん、全く気づかないわけではないけど、

やはりそう気づかないことにしていたことになるのだと思います。

自分ばかりが放棄を迫られているようにも感じていたし

情けなくて、恥ずかしくて

みすぼらしくて、寂しくて、悲しい。

とても悲しかった。

どうしたらいいのかわからなすぎて悲しいという日が

何日も何日も続きました。

この世界から出るのだ、それは今なのだ

とも思う。

今は無理だ、とも思う。

という日が何日も続きました。

 この見つめ続け祈り続けた期間は、みぞおちのあたりを

キリでグリグリとえぐられるような感覚が続く、非常に過酷に感じるものでした。

 でもコーリングは確かで消えません。

どんなに自我指向だらけになっても、全く消えませんでした。

これは本当に救いでした。(楽になるという意味ではありませんが)

 

けれども、とにかく信じてしまっている

恐ろしい

すべてを失う

という思考から離れることは本当に難しいことでした。

これは、全く自分では対処のできないことであることを

とことん知る必要があったのだと思います。

 

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聖霊、どうぞ私を、私自身であるすべての兄弟姉妹たちの真の平安のためにお使いください。