大丈夫なのだということ

どんなに真理を聞いても読んでも

本当に受け入れるまで葛藤は続くのかもしれません。

ほぼ自我と同一化している私たちには、それは

諦め、のように思えます。

 

私は、世界を諦めて落っこちるか

引き続きこの世界に留まるか、という淵で本当に悶絶しました。

(真にはその悶絶も選択もないのですが)

この世界にとどまる方がいいに決まっている、という話だらけになっていたので

この世界にとどまりたくて仕方ありませんでした。

いい職場、いい人たち、

コースを学んで、癒しが起きていったら

こういう世界を見るのね、という解釈をあてがいたくなるものが

展開されていたので

これは聖霊がこっちでいいと言っているのだろうと思いたかったわけです。

でも、本当のものっていうのは誤魔化されないものです。

そんな風に見たい気持ち満載の私でも

これは引っ掛けだなとわかるのです。

今展開されている、良さそうなこの世界も、放棄するものだと。

もう、何にもなくなってしまう、

何だか文字通り、無一文になってしまう、と真剣に思いました。

なかなか通り過ぎることのできない苦しさは本当にきつかった。

放り投げてしまいたくなりました。

でも、このエラーは、なんどもなんども、コースをやる前から

コースを始めてからもなんども同じだと見えていたこともあってか

聖霊の本気ゆえか、放り投げることはできませんでした。

とにかく祈り続けました。

明白に見せて欲しい、はっきりと私の目の前に示して欲しい。

 

仕事を断ろう

という考えが浮かんで、

いや、そんなことをしたら大変なことになる

という考えが即座に浮かんで

でも

本当にそうなのだろうか。

なぜか、これが浮かんできたとき

自分の中がガラッと変わりました。

 

ここは説明ができません。

大丈夫なのだとわかったのです。

どうしてかはわからないけど。

 

そして、今も、何も解決していないし、

目の前は言っちゃえばお先真っ暗みたいだけど

でも

大丈夫なんだろうな、と

思おうとするとかではなく

思えています。

これはとても自然なことだと感じています。

 

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 聖霊、どうぞ私を、私自身であるすべての兄弟姉妹たちの真の平安のためにお使いください。